私はすごく目が悪い、遺伝的なものもある、葬式で親族が揃ったとき全員眼鏡だった、私はその中でも強度近視だ、コンタクトの数値を言うと「それはベースカーブやろ」と以前の上司に突っ込まれた、しかしそれが本当の数値だ。
以前から少しだけ見えなくなることを恐れた、もう子どものように見ることはできない、矯正された視力で見る、鮮やかさが違う気がする、「君の名は。」とか京アニのグラフィティをたまに見たくなる、それは若い目で何かを見ることの良さが表現されているからだと思う。
外に出て眼鏡をなくしたら家に帰れるだろうか。
こないだ夜中車の信号待ちで眼鏡を外してみた、信号や町の光がぼやけて夜が少し明るく見えた、水の中で目を開いたような感じだ、しかし今私は水の中で目を開くこともできないのだが、そういう感じ方のたとえは目が良かった頃水中で見た記憶がある。処方されてる目薬は注してから1分目を瞑る、こないだ台所で注して5mくらいの距離のベッドまで目を瞑って歩いたときに冗談のように本棚や戸にぶつかった。目薬で目を濡らすのは気持ちいい。水と目は何か深い関係がある。
目がどれだけ悪くても光のある世界に慣れてる、見えないことには肩が震えるほど怖さがある、目をつぶって家までは帰れないだろう。
しかし本当は眼鏡がなくても目を瞑っていても家にはなんとか帰れる、なんとかする、誰かに手伝ってもらえるだろう、幸い私は都市部に住んでる。
言葉は大体反対の言葉がある前提で作られている、盲人の反対は晴眼者というらしい、いい響きだなと思った、盲にも音は響く、しかし字面はない、晴眼者に手伝ってもらいながらしてください、とそれには書かれていた。